もうひとつ、インドで事業をはじめた重要な理由があります。それ以前は、日本や 韓国を生産拠点にして業績を順調に伸ばしていたのですが、わたしは「これがずっと 続くわけない」という恐怖心を抱いていたのです。
わたしが韓国に行きはじめた頃は、いまのようにメルカリのような個人間で商品を売買するサービスもなにもない時代ですから、いろいろな物をハンドキャリーで仕入れてフリーマーケットで売るのがちょっとしたブームになりつつありました。
でも、みんながそうしていくわけであって、そんないい流れがいつまでも続くはずがありません。
いつ誰が同じことを、規模を大きくしてはじめるかもしれず、むしろそこにあるのは恐怖だけです。同じことをやり続けて、ずっと同じように成長し続けている会社なんて、聞いたことがありません。
だからこそわたしは、海外では信頼できるビジネスパートナーを探し、きちんと生産から手掛けることで、日本市場にあった商品をつくろうと考えました。
商売が軌道に乗っていても、わたしは「もっと日本人が行かない場所で、日本人がやらないことをやらなくては......」となぜかいつも焦っていました。
たまたまヒット商品をつくることができましたが、それもまた誰だってできるこ と。要するに、他社とまったく違うことをしなければ差別化ができないという、会社としての事業における必要性があったわけです。
当時、競合他社も、中国や韓国はもちろんのこと、インドネシア、タイ、ベトナムといった東南アジアまで事業の手を広げていました。「ならば、ほかにはどこがある?」と考えたとき、ふとインドが思い浮かんだのです。
競合他社がインドに手を伸ばしていなかった理由として考えられるのは、インドは日本からの距離が遠いだけでなく、事業環境やインフラも整っておらず、様々な面での事業リスクが大きかったからでしょう。
しかも、「インド人は平気で納期に遅れるし、できないこともできるというよ」と、 まことしやかにささやかれていました。
あまのじゃく でもわたしは、「そんなインドでやったらきっと武器になるな」という、天邪鬼な考えも持っていました。
いい悪いは別にしてお国柄というものもあるし。あらゆる側面から見て確かにハンドリングは難しそうだけれど、もしそれができたら、インドの高い技術を使って質の高い商品をつくることができる。
そして、それはまだほかの誰もがやっていないこと......。
いまとなって振り返れば、このときも、わたしの「怖がり」な性格ゆえに、逆にほかの人よりも先んじることができたのかもしれません。
会社としての事業のスタートは順調でしたが、「たまたまだ」「人生そんなにうまくいくわけがない」と、わたしはいつも感じていました。本当に、自分でもあきれるくらい苦労性です。 「山高ければ谷深し」といいますが、うまくいっているときほど、次の手がなければすぐに怖くなってしまうのです。実家は神戸の三宮の高架下でパンスト店を営んでいたのですが、幼少期から家業を見ていて、自然とそんなリスクマネジメントの感覚が身についたのかもしれません。
いずれにせよ、どんな仕事であっても、調子がいいときほど先を見る視点は必要不可欠です。
悲観的な見方は好きでない人もいると思いますが、どんな仕事でも結果を出していかえりくためには、「いいことは一生続かない」と自分を省みる、客観的な視点がなにより大切なのです。